のんびりdiary

日々、思い悩み感じたことを綴ります

父のこと

ふと、職場で父のことを考えていたら
レジミスをしでかしたホットケーキでございます。

父は母とは20ほど離れています。前妻がいまして、その前妻との間に男の子と女の子がいます。
その前妻はガンで亡くなったそうです。
当時、母は23歳ほどでした。母は前妻との子供との方が年齢が近く、女の子の方は当時中学生、男の子の方は高校生くらいだったのではと思います。
一緒に暮らす案がありました。義理の兄の方は了承しましたが姉の方は許否しました。赤ちゃんだったわたしを見たその義理の姉は、わたしのお父さんをとられたと思ったそうです。
父の母と父は、わたしを可愛がってくれました。
けれども、父方の親戚は、それはえらく母をいじめ、その母と結婚した父を親戚仲間から追い出しました。
唯一、父方の方で可愛がってくれたのは、父の母と父だけでした。祖父母となる人ですね。祖父は早くに亡くなったので覚えてはいませんが、祖母は長生きしましたから、よくお世話になりました。
小さいころはしょっちゅう祖母のところへ行っていました。むしろ母方の祖母よりも当時は可愛がってくれたのではないでしょうか。
たまたま親戚に合うと、祖母は一応挨拶をしなさいと言いますが、こんにちはと言っても無視をされます。そんな親戚でした。
小学生になって祖母に会う機会が減り、中学生になったころ。親戚にこそっと内緒でよく祖母に会いに行っていた父がある日、久しぶりに祖母を訪ねると、家には誰もいない。待てども待てども誰も帰ってこない。これはおかしいと父が親戚に連絡をするも、曖昧にかわされる。何度も何度も連絡をして、折れた親戚が打ち明けたのは。
老人ホームに入れた、と。場所はと聞くと、場所は教えてはもらえない。場所の方は親戚は折れなかった。
わたしの母がそれを聞いて、祖母の家や親戚の家の近所の施設に片っ端から連絡をしました。すると見つかりました。父がまず面会に行きました。
そして、その後、父が言いました。生きているうちに会っておけ、と。
父と一緒に会いにいくと、食事もまともに自分でとれないほど認知症が進み、父のことも覚えてはいない。
車椅子にくくりつけられている。「ぶたばーちゃん!」と呼んでいたほどまるまるしていた祖母は、小さくなっていました。
わたしが行っても、どこのお嬢ちゃん?でした。
黙って目の前に座っていました。父が一生懸命、わたしの話を祖母にしていました。そのやり取りを聞きながら黙って目の前に座っていました。
すると、祖母がふと。わたしを思い出しました。
「大きくなったね」と。いくつになったの?もう中学生くらい?…と祖母としての会話が始まりました。今なにしてるの?部活は?勉強は?
あ、そうだお小遣いあげようね。いつも祖母はわたしが会いに行くと、こたつの板の間か腹巻きの中から千円札をお小遣いねとくれていました。
同じように、側にあるテーブルをいじって、拘束されているベルトを腹巻きだと思ってそこをいじって、車椅子のポケットや自分の服、あちこちいじって。最後は寂しそうに、ないと言いました。
その後は、施設での生活のお話、いつも何をしているか、誰がどんなことをするのか、最初に会ったときとは別人のようにお喋りをしました。
そして帰るとき、またおいでねと祖母が言って、わたしと父は帰りました。
祖母と会ったのはそれが最後でした。

ある日、父の携帯に親戚から連絡がきました。
明日、お葬式だと。お通夜は済んでいると。
父はその日、祖母に会いに行きました。翌日、お葬式に出ました。わたしは祖母には会えませんでした。親戚にはもちろん呼ばれてはいませんが、記憶の中の祖母のままでいてほしかったのです。
父は何度も何度もお葬式が終わったあと、謝っていました。悪かった、悪かったと。

その後、祖母のお墓は行方不明です。
父が聞いても、親戚は一切教えませんでした。

それから、時が経って。父も体調を崩し仕事も失い。わたしが高校生後半のころ。一緒に住んでいた父が、ある日出ていきました。義理の姉が父に甘い言葉をかけたのです。義理の姉の家に父は居候したものの、ろくな食事はもらえず、年金は奪われ、小さな部屋から出ることも許されず、テレビもなにもなく。義理の姉の娘は父に暴言を吐き、義理の姉の旦那もいい加減に扱い。ある日、父は抜け出すように、逃げるように、わたしたちの家を訪ねてきました。その後、今度は義理の兄が引き取ることになりました。父は母にお世話になったからと、年金の通帳を「母へ」とメモを残して置いて、誰もいない時間に取りに来てくれと言いました。ちょうど、そのタイミングで義理の姉が父を訪ね、それを見ました。
義理の姉は母に連絡し「年金の管理は私がさせてもらうから」と。
その後、暫く父は義理の兄の家で普通に暮らしていました。テレビもあるし布団もある、携帯も自転車も。たまにこそっとお菓子を持って、わたしたちを訪ねてくることも。わたしたちが父を訪ねることも。
それもいつしかなくなりました。高校を卒業し、専門学校に入学し、忙しくなっていきました。

ある日、母がふと思い立って父を訪ねました。
けれども、お昼だというのに誰もいるような気配もないし、扉を叩いても誰も出てこない。
暫くして、また訪ねるも、同じ。
不審に思った母は義理の兄に連絡をする。なかなか通じない。何度か連絡をし、やっと通じ、事情を聞くと。老人ホームに入れた、と。
施設は?と聞くと教えるわけにはいかない、と。
わたしたちの家にある父のものはすべてこちらへ送ってくれ、と。着払いで良いから、と。
母は父がよく着ていたスーツだけは送らないと言いました。義理の兄は、それは困ると言いました。そのスーツは手元に置きたいと。母が押し通して、結果的にはスーツだけはわたしの手元にあります。

でも、それだけです。父の居場所も知らない。
生きているかどうかもわからない。一応、連絡がないので生きているとは思っている。
けれども、わたしの知っている記憶の中の父はもういない。

老人ホームに入れた、との言葉にショックと苛立ち。
なぜ一言もなかったのか、と。
なぜ施設を言わないのか、と。
なぜ祖母と同じことをする、と。
また親戚連中か、と。
憎しみが募る。

でも最終的には、もういないものだと思うようにした。死んだものだ、と。もういないのだと。

その後、父と住んでいたマンションから引っ越しをした。父のスーツが出てきて、管理に困った。
引っ越し後、押し入れの奥に放り込んだ。
わたしに重いものを背負わせるな、と。

父がほんとうに亡くなったとき、義理の姉と兄とわたしで揉めるだろう。揉めるどころか、亡くなったことも伝えられず、祖母と同じようにお墓も行方不明になるのかもしれない。

わたしに重いものを背負わせるな、と。
父のスーツは憎しみを心に連れてくる。

引っ越し後、一切触れてはいない。
引っ越し前も触れてはいない。
引っ越しのときにだけ触れた。

最近、落ち着かずそわそわと夜中にうろうろすることが増えた。お片付けに少しはまった。
引き出しをひとつずつ片付けていった。
父からもらったキーホルダーや写真、たくさん出てきた。死んだものだと思っている。もういないものだと思っている。実際に、わたしの記憶の中の父はもういない。
よみがえる記憶。記憶の中の父に会いたい。
その思いを、もう死んだのだと押し殺す。

ふと、職場で思い出した。父のスーツを。
あのころは、重いものを背負わせるなと、憎しみをもこもったスーツであったが。
今ではなんだか、とても貴重なものに思えた。
やつらに奪われなくてよかったと。

そんなことを考えていたら、お客がきた。
レジをしたらミスをしでかした。

いらぬ事を考えるものではない。

でも、最近。父のことをよく思い出す。

やっぱり死んだものだと思っていても、いないものだと思っていても。
記憶の中の父には会いたい。

その思いと共に憎しみがわいてくる。
義理の姉や兄に。親戚に。

30や40になって未だに、この人たちはわたしのことを「お父さんを奪った憎きやつ」で、母は「お父さんをそそのかした憎き女」である。

祖母に対してもきっとそうだったのだろう。
祖母はたくさんの子を産んだ。その子にそれぞれ子供がいた。祖母にはたくさんの孫がいた。
その孫たちを一切構わず、わたしだけを可愛がった。

まったく同じ手口である。

でも、もう良い。
父はもういないのだ。

受診日で外出できるときにでも、父のスーツをクリーニングに出そう。そして、綺麗にしまおう。

形見として。