のんびりdiary

日々、思い悩み感じたことを綴ります

不調者同士

妹が生まれる前のこと。
母は、それはそれは大層にわたしを可愛がっていたそう。その記憶はないが。
きっと、普通の親子といえば各々の家庭によって違うが、一般的なものであったに違いない。
父はどうだろうか。わたしのことは可愛がっていたとは思う。だが、家庭的な父ではなかった。
ゆえに母は浮気をする。それが妹の父である。
浮気をし始めてから、わたしに対する態度が変わったそう。一切、手をあげなかった母がわたしに手をあげるようになったそうな。わたしの身なりも、靴が左右違ったり、ボタンがずれていたり、以前の母が幻かのように、わたしへの接し方が変わったそう。
わたしは覚えていないが、母はわたしの幼稚園の入学式の日に、浮気相手と家を出て行方をくらましたそう。
その前後どちらかで、わたしはその浮気相手と母と暮らしたことがあるが、浮気相手が厳しく、また環境の変化についていけなかったわたしは、次第に神経性の症状が出始め、父のもとに返された。その後の母はどうしたのかは知らない。
いつしか妹を身ごもり、浮気相手のもとで妹を産む。
その後のいきさつは知らないが、妹とわたし、わたしの父と母としばらく暮らす。
母は父を憎んでいた。ゆえに、無意識のところでその血を引き継いだわたしのことが目につくこともあったのではないだろうか。
母はよく、子供からすれば理由のわからないことで怒った。大人には理由がわかるのだろう。子供にはわからなかった。今、思ってもわからない。
叱るではなかった。怒るであった。
その程度が妹とわたしで異なった。妹が大きくなると、程度も変わらなくなったが。
まず、言葉から始まる。その後、手が出る、次に足が出て、最後は家の外に出される。何時間も。
昼のときもあれば夜もある。夜中もあれば明け方もある。夜に出され、夜が明けたこともある。
春夏秋冬は関係ない。寒かろうが、薄着の裸足で外に出される。宗教の勧誘のおばちゃんが見かねて、説得にかかったこともある。郵便や配達の人が説得にかったこともある。近所の人が、母に怒ったこともある。「家の方針に口を出すなら、あなた方が引き取って育ててください」と一言で終わる。みんなわたしに謝って帰る。
家だけではない。遊園地、レストラン…外出先でも怒られることもある。言葉から始まり、手足、その後は置いていかれる。あとで迎えにはくるが。
見知らぬサラリーマンが母に怒ったこともある。
「同じ子供のいる身としてあなたがしていることは理解ができない、かわいそうとは思わないのか」と。「家の方針に口を出すなら、あなた方が引き取って育ててください」の一言で終わる。
唇が切れる、鼻血が出る、アザができる、たんこぶができる。母に怒られると、それは毎度のこと。
包丁を持って殺してやろうかと壁の端まで追い詰められたこともあるし、突きつけられたこともある。外まで包丁を持って追いかけられたこともある。
おもちゃのプラスチックのバットで叩かれたことも、持って追いかけられたこともある。
でも決まって最後は「優しいお母さんになれなくてごめんね」であった。
怒らなければ、とてもとても良い母だった。怒っていない母はとても楽しい人であった。
母は体の病気で時折、入退院を繰り返していた。
子供の頃のわたしは体の病気だけだと思っていた。
わたしが中学生になったころ、母が入院する。相変わらず、母の「怒り」は続いていた。わたしが、大きくなって、規模も大きくなる。自室の私物をすべて外に出されたこともある。「優しいお母さんになれなくてごめんね」はなくなっていた。
そんなときに入院したのが精神科であった。
面会禁止、ひと月かふた月は、一切会うことは許されず、電話も禁止であった。唯一、許されているのは手紙のみ。それも確か、内容を確認されてから、母に渡されていたはずである。
入院中は父が、わたしたちの家に泊まり込んでわたしたちの世話をしていた。というのも、このころは父と母は別居で、わたしと妹は母と暮らしていたからである。わたしと妹は祖父母の家と我が家を行き来する生活であった。
ある日、母が一時帰宅を許される。嬉しそうに母が帰ってくる。
そして、家に入るなり、怒る。「入院して帰ってくるとわかっているのに家を綺麗にしてあげようという気はなかったのか」と。
「おまえのせいで精神科なんかに入院させられた」「おまえのせいで精神病になった」「おまえのせいで体の病気も良くならない」「おまえがいるといつまで経っても元気になれない」とわたしに言いながら、家の掃除を始めて、そして妹とは楽しそうに接していた。
退院しても、母の理由のわからない「怒り」はおさまらず、機嫌の良いときと「怒り」を繰り返す。
それから妹もわたしも大きくなると「怒り」モードに入ると、言葉の攻撃に変わっていった。
「目の前の道路で車に轢かれて死ね」など。
だが、機嫌の良い母は、そんな言葉を発したことは忘れている。それは今でも忘れている。
わたしと妹は、母の「ご機嫌」に振り回されて育ち、今も振り回されている。
今の母は「ご機嫌」モード。「不機嫌」モードになると手に負えない。だが、最近は若干「不機嫌」モードが見え隠れしている。
母の主治医は、鬱やうつ状態だと診断している。
鬱っぽくなったら抗うつ剤を処方し、元気になるとデパスセパゾンの処方に変わる。その繰り返しである。何十年も。
鬱とはこんなに波があって攻撃的になるのか、と不思議に思ったこともあった。他の病気ではないのかと。でも、仮に他の病気であっても、処方はこれしかないのだろう。母は「てんかん」も患っている。
これらは「てんかん」の発作であるときもあるのだ。
祖母の話では、母は子供のころから、普段は穏やかで優しい子であったが、発作的に攻撃的になったりわがままになったりすることがあったそう。
それも「うるさいくそばばあ!」程度ではなく。
お寺さんが来る直前にお供えを玄関にばらまく、冷蔵庫のミルクを床にまく…など。直接的なことではなく、困らせをやっていたそう。
そのころは祖母も何も気がつかなかったそう。
今になって、「ご機嫌」「不機嫌」モードが見えてきた祖母が、今思えばと、気がついたそう。

そんななかで育った妹も、腕は傷だらけ。それでも妹は外で悪さをする方向に走った。
わたしも腕は傷だらけ。わたしは、内にこもる方向に走った。
妹は何か不調があると友達とばか騒ぎして発散するそうな。
わたしは外で発散できない(逆に疲れる)ので、デパスで発散。

瞬間湯沸し器ではないが、発作的に攻撃的になったり、かと思えばご機嫌になったり。
どんよりが続いてうっとうしかったり、かと思えば毎日ご機嫌であったり。
母はこういう傾向があるが、これをきっちり引き継いでしまったのはわたしである。
妹は見ていると、どうやら引き継がなかったようである。

つまり、何が言いたいかというと。

わたしを作ったのは母だということ。
生まれたときまっさらのわたしだったとればこう作ったのは母。
生れつき、母の性質を引き継いでしまっていたとするなら、結果的にこう作ったのは母だということ。

憎しみはないけれど。

病院に通うことも、お薬を飲むことも何も思わない。
だが「自分はおかしい」「自分はひとと違う」ということは受け入れられない。母と同じなのだということは受け入れられない。

昔、こどものわたしは七夕の短冊にこう書いたそう。

「大きくなったら幸せになれますように」

こどものわたしは悟っていたのだ。将来の自分がどうなるのかを。

今のわたしには、前を向くと真っ暗闇でしかない。
考えないようにはしているが。

いつか、真っ暗闇で見えなかった崖から下に落ちるだろう。
真面目に考えたら恐怖でしかない。だから、冗談にする。

「わたし60までには孤独死するからよろしくね~♪」

午前中には起きていないといけないのに何を書いているのだろうか。

そうだ、今母が不調で、それに振り回されかけているなあと思っていたら、書きたくなったのだ。

寝よう。夕方ならまだしも、昼に半分寝ながら仕事するのは、えらいからね。












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