のんびりdiary

日々、思い悩み感じたことを綴ります

ホットケーキ、つまりわたしとは

もうすぐ四捨五入で三十路となるホットケーキ、つまりわたし。
現在はアルバイトで片手と少しの収入を得て、そこから学費借金の返済をしながら、親と親の親のお脛をかじってしゃぶって日々生きております。このアルバイトはやっと半年経ちました。この半年はアルバイト先の皆様のおかげで続いた半年であって、わたしに半年続けるスキルなど持ち合わせておりません。高校生のときに一度アルバイトをしました。それも2週間ほどで終わりました。2週間連続勤務をして終わりました。その後、専門学生のころに、土日アルバイト。こちらは1年続きました。その後、学費稼ぎのためにそのままそこで週6アルバイトに増やしました。そして半年ほどで終わりました。相変わらずお脛かじりをしていましたので、月両手の額をほぼ貯金しておりました。その貯金で、お脛かじりをしながら、暮らしました。半年ほどであったと思います。
その後、貯金が尽き始めたので職さがしをし、職を得たものの、そこも2週間も経たずに終わりました。
そして3か月ほどお引きこもりしておりました。この3か月はかつてないほど、酷いものでした。ただ、遊びたいからお引きこもりしていたのではなく、お引きこもりせざるを得なかった3か月でした。
そして、今の職場にたどり着きました。
このように、わたしには継続というスキルが大きく欠けております。

幼稚園→小学校→中学校→高校→専門学校
と一応なんとか進んで生きてきました。そのなかで大きく躓いたのは小学校から中学校でした。
小学校の終わり、勉強に目覚め勉強が遊びになっていました。お小遣いで問題集を買っては解き、そして終わった問題集よりも難しい問題集を買っては解きを繰り返して、そのまま卒業し中学校に上がりました。全授業が開始される前に全科目のテストがありました。当時、市で特に学力のなかった我が母校は、テストの出来で授業のクラスわけをするという策を講じておりました。理解させるためにレベルに合わせた授業をして基礎学力を向上させよう、と。
新入生のレベルは3つほどにわかれました。小学校のころから塾に通って私立高を目指す学生、小学校のころ普通に宿題をして普通に授業を受けて特別できるわけでも特別できないわけでもない学生、小学校のころ遊びに夢中になって宿題もせず授業も聞かず特別できない学生。
当時のわたしに知恵があれば、馬鹿正直にテストなど受けなかった、自分のやりたいレベルに合わせて解答しただろうに。わたしは私立高クラスに入ってしまったのです。みんな塾に通っているので、基礎はすっ飛ばした授業でした。地獄でした。当時はノートをとってもテキストを見ても、さっぱりわかりませんでした。ひと月、ふた月が経って苦痛になってきたころ、テニス部に入部しました。もちろんわたしはバカです。みんなはもうダブルス組んで学生同士試合をしたりラケットで打ち合いしていました。わたしは部活のルールを覚えるところからでした。 まず、大きな大きなルール、引退目の前の3年生には可愛がられるな。知らないわたしは3年生に可愛がられて2年生に嫌われました。自動的に3年生担当の顧問には可愛がられ、2年生担当の顧問には嫌われました。残念なことに、2年生の顧問は同時に1年生の顧問でもありました。やってもいないことを1、2年生が告げ口をしてグラウンド10周20周、顧問にばれないように水分補給させてもらえない…など、ほんとうにいろいろとありました。
わたしはとても悔しい思いをしました。夜遅くまで練習しました。気がついたら、1年生同士の練習ではなく、2年生との打ち合い練習に入っていました。その頃から、一部の2年生が仲間に入れて守ってくれるようになりました。すると、残りの2年生と他の1年生が組んで、本格的にわたし排除にかかりました。いつしか耐えられなくなって、制服が着られなくなりました。不登校っ子になったのでございます。
母に言わせれば、当時のわたしは部屋から出てこず、ご飯も食べず眠りもせずであったそうです。記憶にはございませんが。
でも、中途半端はなんだか腹が立つので、退部届けを出しに登校し以降、クラスには戻りませんでした。やけくそになったのでございます。中身は不登校っ子、見た目はギャルっ子になったのでございます。そうして、中学校は終わりました。体育祭不出場、修学旅行欠席、卒業アルバムは入学式の写真を加工。卒業式出席は認められなかったので、後日必要書類などを受け取りに登校、そして中学校さようなら。
これが、躓いたきっかけでした。

その後、1年遊び呆けました。1年後、単位制で定時制普通科高校に入学しました。この高校は学力としては頑張れば全日制レベル、遊べばよその定時制以下レベルと、頑張りでどうにでもなれる選択肢の多い高校でした。
前半は遊びました。単位も落とし、退学寸前までいきました。後半で持ち直しました。ここは、語りたくても語れぬ事情がありました。人の生死に関わるような事情でした。
そして、持ち直しましたわたしは、医療系の専門学校に進学しました。2年後期終わり前までは順調でした。後期終わりの実習で、指導者の嫌がらせに負けて実習を落としました。留年して、もう一度、実習に行きました。実習先に特に問題はありませんでしたが、学校の担当講師がわたしを可愛がってくれた受かった実習先の指導者とその指導者と仲の良い学校の講師の反派閥組でした。中途面談のときに「実習は難しいですね」と言ったわたしの一言、その一言でその場で実習継続不可という評価。その時の講師の顔は忘れられません。ニヤリといやらしく笑いました。
その後、実習ストップ、見学のみ。指導者が抗議してなんとか実習復活、そのときすでに3週間の実習のうち2週間が過ぎていました。残り1週間で患者さんと関わってレポートを仕上げる。3週間でもしんどいところを1週間、そしてその1週間のうち3日間、患者さんが体調不良、残り4日ですべてを仕上げる。あと少し、が間に合わず実習の評価は不可となりました。
その日の帰り、夜でした。泣きながら自転車に乗って帰りました。理由のない涙、理由がありすぎる涙。赤信号に気がつきませんでした。道路に出ました。原付が飛び出してきました。原付の方を犯罪者にしてしまうところでした。
帰って、泣いて、やけ食いをして、やけ酒をして。休学を決めました。
貯金で遣り繰りする頃のことでした。