のんびりdiary

日々、思い悩み感じたことを綴ります

ゆでたまご

私を例えるとして。殻のついたゆでたまご
殻のついたゆでたまごを「ゆでたまご」と以下記すとして。

ゆでたまごは殻があり薄皮があり白身があり黄身がある。
白身は私である。殻は白身を守るためにある。だから硬い。殻は私らしき私である。半分、嘘の私である。薄皮は、殻が破られたとき、白身を守るためだけにある。ただそれだけに過ぎない。黄身は私ですらわからない私である。

まず、私はゆでたまごすら見せない。だから、みなが見ている私は完全なる嘘の私である。私らしき私っぽい私。
親ですら知らない。主治医も知らない。

それがなぜか。私のゆでたまごを見つけるプロがいる。
隠しても隠してもすぐに見つけるプロがいる。そのプロは、ゆでたまごを叩き割り、白身を暴き出す。黄身はさすがに届かないが。
まずい、割られた。修復せねば。
必死に修復に集中していると、今度は反対側から叩き割り、白身を暴き出す。ゆでたまごは、殻が剥がれていく。
しかし、そのプロはすべての殻を割りはしない。時折、隠させてくれる。とはいえ、印をつけ、いつでも見つけられるようにする。
隠しても隠してもすぐに見つかる。印を消して、別の場所に隠してもすぐに見つける。私のゆでたまごを見つけるプロがいる。
私はそのプロにゆでたまごを預けた。だが、いつまでも預けているわけにはいかない。いつかは取りに行かねばならない。いつまでも預けていられたなら良いのに。

ゆでたまごが返ってきたとき。さて、ゆでたまごをどうしようか。プロは大切に守っていてくれている。同じように自分で守れるかといえば否である。
いっそ、捨てたら良いのだろうか。