のんびりdiary

日々、思い悩み感じたことを綴ります

母子

わたしは母が子供の頃、どんな思いをして過ごしたのかはわからない。祖母がどういうふうに接して育ててきたのかもわからない。祖母が言うこと、母が言うこと、食い違いがある。実際のところはわからない。その時代にわたしが生きていたわけではないので。ただ、母はその子供時代のことが心の中で凝り固まって、今に至る。だから、今でも母は、子供時代の母が、母の中に住んでいる。
調子の良いときは昔から母はとても良い母であった。「お母さんお母さん」と毎日わたしが後ろをついて歩いていたほどだ。けれども、一度。スイッチが入ると、人が変わる。本人はその自覚はなく、今でも当時そうであった自覚もない。
調子の良い時の母は常にわたしたち姉妹のことを優先に、常に良くしてくれたのは確かである。嫌なことがあれば助けになってくれ、楽しいときは一緒に楽しんだ。
けれども。スイッチが入れば別人となる。
子供の頃、母から怒られたとき。なぜ怒られているのか理由はわからなかった。なにか自分が悪いことをしたのだろうということはわかる。母が怒っているのだから。けれども、理由はわからなかった。
理由のわからないわたしたち姉妹に母はさらに怒るわけである。本人は、冷静にどうして怒っているのか説明しているのに、これだけ言っているのにおまえたちはわからない、と。
わたしたち姉妹にとっては、それこそ「スイッチ」なのだ。いつしか姉妹とも母のうしろを純粋に「お母さんお母さん」とついて歩いていたのが、母の顔色を常に監察する日々となった。姉妹との合い言葉「嫌な予感がする」。それが面白いほどに当たるのである。
家の中を引きずり回されたこともある。家の中の物を投げられたこともある。寒いなか、薄着の裸足で外に何時間も出されたこともある。鍵も閉められる。湯のはってある浴槽に服のまま放り投げられ、そのまま外に出されたこともある。姉妹自分達の私物をすべて外に投げられたこともある。包丁を持って追いかけられたこともある。
暴力もあった。書けばキリがないほどである。
今すぐ目の前の道路で死んでこいと言われたこともある。母と父がもめれば、わたしたち姉妹もとばっちりを受けて最終的にはわたしたちが悪いことになっている、そんなことは日常だ。おまえのせいで、病気になった、そう言われることもよくあった。
母が精神科に入院して、一時帰宅したその日の言葉だ。
おまえのせいで病気になった、おまえのせいであんなところに入れられた。
でも、そんなスイッチが入った母は別人なのだ。
スイッチが切れると、そんな記憶はなくなる。いや、当時はあったのだろう。今ではない。一切なく、可愛がって可愛がって大切に育ててきた、そう思っている。
寒いなか外に何時間も出されたあと。母は温かいお湯を湯船にためて、「足が冷えて」「ごめんね」そう言いながらわたしの足をさすった。「怒った」→「ごめんね」これも常であった。
妹はわからないが。母がなぜ怒るのか、母にとってわたしが悪いことをするから怒るのである。その悪いこととは何か。わたしは最終的に結論を出した。小学生のまだまだ低学年の小さいころであった。
「わたしが生きているから悪いのだ」
以降、思った。怒られるたびに、外に何時間も出されるたびに。今ここでわたしが死ねば、母は怒らないのだ。当時、マンションの最上階に住んでいた。何度、そこから下を見て、飛び降りようと思ったか。何度、車が通る道路に飛び出そうと思ったか。
でも、やはり。そんな勇気などない、子供のころの弱いわたし。延長コードで何度も首を絞めた。長い紐があれば首を絞めた。ベルトがあれば首を絞めた。タオルでも首を絞めた。絞めきれない弱い子供のころのわたし。自分が憎かった。自分の名前が書いてあるもの、すべてにペンで名前を消した。自分の存在が憎かった。そんなことがずっと続いた。母のスイッチに付き合ってきた。他にもたくさんあった。今、25になるまでにたくさんあった。
そして、今。母はそのスイッチの真っ只中である。
母は自覚がないが。母のスイッチが入ると。
母はわたしたち姉妹をドン底まで突き落とす。
ドン底まで突き落とし叩きのめす。言葉で。心をぶっ壊すのだ。母には自覚がない。
母は母として冷静に話をしたり叱ったりしているつもりなのである。

そうやって母の悪口ばかり言うのなら。
早く家を出ればいい。それが世間の意見だろう。
実際に妹は家を出た。

わたしには元気がないのだ。
そこまでしていく元気がないのだ。

誰に言っても誰にも通じはしない。

祖母は精神科に通っている自分を理由に甘えるなという。いくら医者がなんと言おうと、できないじゃなくてやろうと思えばなんでもできる。できない、と精神科に通っている自分に甘んじるな、と。

母は自分も精神科に通って、診断書で休養指示も出たことがあるし、入院だってしたことがあるけれど。わたしは常に元気だと思っていて、「GO!」と言えば「YES!」とすぐに行動できると思っている。
自分はあのとき辛かったな、なんてそんな記憶はもうないのだ。

確かに動かねばならぬ理由はある。

だけど、ではなぜ。わたしは精神科に通っている?

ただ、眠剤を貰うためだけなのか。

今のわたしの思考は腐っている。

わたしが死ねば「あいつが死にやがったから」と。
死人に口なしなので、そうやってわたしのせいにしてしまえば、問題だって簡単に片付いて。
わたしもみんなも楽でいいじゃないって。

最近、愛犬くんに言う言葉。
わたしが先にいなくなったら、わたしとの記憶はすべて消しなさい。わたしという人間がいたこと、わたしとの思い出、「わたし」というもの、なにもかも消しなさい。
そして次に可愛がってくれる、その人のことだけを思いなさい。

あんな程度の量で死にやしない。本気で死ぬつもりもない。
けれど、そんな気持ちも相まって、バカみたいに、1錠、2錠……と口の中に入れていくのだろう。

もう自棄なのだ。腕を切れるのなら、腕も切ってやるさ。

主治医には秘密。

来週、病院だけど。
行かないかな。
お金もないし。

なんだろうね。

自分の思考がどんどんあっちこっちへ暴走していくじゃないか。